たかが言葉、されど言葉

 最近ネットの誹謗中傷での自殺についての話題でやかましい。ネットという媒体が広まって以来のことなので、特段変わったことではない。それを受けてなにやら総務省まで対策に乗り出すという。

 今さらここでネットリテラシーだの云々を言うまでもない。何が良い悪い以前に違和感を感じるのは、「言葉によって人が自死する」という現実である。人間が社会的な存在でありえるのは「言葉を扱える」という点が大きい。どの国のどの社会でもその土地の言葉を一様であっても扱えるというのは大前提の参加条件である。それは言語を満足に扱うことのできない精神障害者の社会的立ち位置一つ見てもわかる。

 さように言葉とは社会的動物である我々人間にとって現実感がある。言葉は実際ただの「空気の振動」もしくは、文字であれば視覚的に入力する「光」に過ぎない。それが人を死にまで追い込む影響をなすのはある意味異常である意味自然である。

 ちなみに僕は人に「死ね」と言われて死ぬつもりはない。他方、「死ね」と言われて死ぬ人間が現実に存在する。なぜか、原因は簡素に分けて二つ。第一に自死したその人間はその言葉に触れたということ。第二にその人間はその言葉に触れたことによって死んでしまう人間であったということ。ある人間が「死ね」という言葉を吐いても、それを聞いた人間によって反応は違う。つまり言葉は受け手次第でもある。発信の仕方もあるだろうが、ネット上の言葉にそこまでの幅はない。

 こういうことを言うと即座に「じゃあお前は自殺した人が悪いというのか」と言って怒る人がいる。そうしてすべてを良い悪いでたちまち一刀両断したがる人間をいわゆる「おバカ」という。一刀両断すればそれ以上考えなくてもいいからである。もしかしてそのバカって俺のこと言ってんのかよ!と怒り出す人も「死ね」と言われて本当に死んでしまいかねない程に言葉に影響を受けて生きているのである。

 それからこのネット上の誹謗中傷に関してつくづく思うことは、自死した人間はわざわざ自分でその言葉に触れに行っているという点である。突然監禁され、椅子に括り付けられ、耳元で永遠と罵詈雑言を浴びせられたのではない。SNSのイイネやコメントで一喜一憂するのも同じことである。その根底は何かというと「承認欲求不満」であろう。私は十分認められていない、私はこのままではいけない、他人が私をどう思っているかが気になって仕方ない。世間の中に生きていればもちろん少なからずそういう感覚が芽生えることはやむを得ない。仮に「私は私!」で100%通した生き方をすれば完全孤立状態である。しかしそれにすべてを食われてしまった結果が自死になる。要はバランスなのだ。

 具体的に言えば、僕は「死ね」というような呪いの言葉にはわざわざ触れに行かない。ここ僕が何かを書いてそれに呪いのコメントをするような人間がいたとしても相手にしなければいいだけの話である。第二にそういう言葉に万が一触れてしまったとしても、常識的に考えてそれはつまるところ空気の振動ないしはスクリーンの光であることを思い起こせばいい。私の存在、表現を嫌いな人が入れば好きな人もいるのである。目の前だけが現実だと頑なに思っていると世界はとてつもなく明るくなったり暗くなったり忙しない。まあ色んな奴がいる、それだけのことである。

 翻って誹謗中傷を書く側の人間はどうか。言うまでもなく知性と品性と成熟を著しく欠いた人間であることは間違いない。それと同時に、こちら側も同様に承認欲求不満なのである。相手が芸能人である場合は特にそうであろう。「うらみ」は「うらやましい」と同意である。真に満たされている人間が他人を恨むまい。

 要は言う方も言う方だが聞く方も聞く方、というこである。

 「じゃあどうやれば防げるか」という話になると、大抵一元論で「悪いやつを見つけ出して懲らしめろ」となる。だから規制だ、となる。しかし不特定多数の人間がカオスな罵倒を繰り広げるネット上ではそんなものやっても焼け石に水である。総務省の対策もおそらくポーズだけであろう。そもそも取り締まりがあるからと言う理由で悪口を書かないという人間は、ひとたび人を殺しても良い無法状態となった途端に殺戮に走る。

 そんなことをやるくらいだったらまだ「たかが言葉、されど言葉」の「たかが」を知ってもらったほうが良い。そうして無視していれば取締なんぞせずとも、いくら罵詈雑言を吐く人間がいようが一切のリアクションを得られなければ虚しくて止めてしまうものである。そういう当たり前の常識を広めることが先であろう。つまりはこの文章がその一旦を担ってくれることを僕は願っている。

コメントを残す