2022年1月10日 23時10分
新年明けまして・・・。遅すぎた挨拶は止めにしてともかく塾のリオープンは果たした、と言いたい。大晦日と正月は誕生日の如く平凡に迎えた。塾に関しての話はしだすと本当にきりがない。やることは無限にある。「やれる」と言い直した方がいいかもしれない。11月の入居以来、やれることは休みなしにやったがその反動でスランプに陥った。
かつてミニマリズムというものにのめり込み、あの佐々木文典士ともお会いした。今では家が大工道具と木材だらけになってしまった。また当然のことながら所有物の量は多かろうが少なかろうが幸福であればそれでいい。その軸を決して外さない考え方を幸福本質主義者と呼ぶ(私が勝手に)。
さて去年末よりまた家庭教師が始まった。なんだかんだで4年で40人以上の生徒を見てきたらしい。今目の前にいる生徒も、今までの生徒もつまりは「やらされている勉強」をやっている。当然成績が悪いから家庭教師は雇われる。誤解を恐れずに言えば、私は一貫して学校の成績などドーデモイイことだと思っている。(講師あるまじき発言ではないか!)
学校の成績はつまるところ「暗記力」に尽きる。成績がいいことを自慢する子がいれば、それは指の長さが人より長いことを自慢しているに等しいとさえ思う。思うだけで実際には違う。指の長さは努力では伸びないからだ。世の中には本当に腕を組んで授業を聞いているだけでテスト満点を成し遂げてしまう子がいるのだ。血迷ってもそんな子と我が子を比較してはいけない。
そうでない生徒が9割。そこでの違いは頭がいいかバカかの問題ではない。つまり集中力である。なぜ私が目の前の生徒に「ほら、集中して」などと言えないか。それは私自身が集中力0、いやマイナス100の子供だったからである。過去の記憶というものをあまり持たないが、「お前だけはほんとうにどうしようもない」と大人に呆れられた言葉は生々しく覚えている。無論、学校のお勉強というものを全くせず、家の机に座ったこともなかった(机ではなく椅子に)。
そんな人間が生徒に「集中せよ」などと偉そうなことが言えるはずなかろう。代わりにできることは共感くらいしかない。わかるわかる。なんでこんなに眠いのに文字を書き書きしなければならんのか。わかるぞ。だからといってそのまま寝かすわけではない。要はなぜ私がいま彼の前に教師として存在するのか、である。
そもそもそんな拷問のようなことはさせたくないと思っているのであれば、そんな仕事はしない。今「教える」という仕事をしているのは、実際には教科内容をおしえているというよりも知ることの楽しさに気付かせるためと言ってもいい。この「知ることの楽しさ」という言葉は自分で書いておきながら、なんだかどこかの企業の謳い文句のようで好きではない。
知性的開花、それは大学の時にようやく私に訪れた。こういうものは具体的に「こうしたらこうなる」式で子供の頭をアクティベイトすることはできない。いや、それを論理化できない私が悪い。強いて言語化するのであれば「子供と同調する」である。はしごをテクテク降りてきて、世間話をして、お茶でも飲んで、彼が全く意識しないようにはしごに足をかけさせて、どこかに気をそらしながら、時にはおだてながら、のんびり上がっていく。こういう文学的でメタフォリカルな表現しかやりようがないのである。
生徒によってはこの「のんびり」が許されない。「あと3ヶ月で受験なのでそれまでになんとかしてほしい」そう言われても、そのお役目はスパルタなお勉強法で受験戦争を勝ち抜いた官僚タイプ(+熱血タイプ)な先生が適役である。そのやり方で数字が上がって仮に目指した学校に入れたとして、それは良きものか聞かれれば私は極めて懐疑的なのだ。
勉強はよろしい。やればやるほどいい。ただ私が根底的に納得できないのは、日本における「苦役美徳化習慣」である。子供にとっての学校の勉強は、大人にとっての仕事といっていい。京都市内の不動産に国際業務で勤めていた頃、毎朝の電車で通勤ラッシュというものに初めて触れた。そこに乗っていた大人の顔は衝撃的に歪んでいた。いや違う、まるで抜け殻なのだ。おいおい、これから1日が始まるのだぞ。
学校における部活。楽しそうにお喋りしながらやっているより、「真面目に」「額に汗して」「苦渋の表情で」やっている人間を見ると大人は「うむ、やっているな」と納得する。これは会社でもそっくりそのままである。いくらやるべきことを完壁にこなしていても、隣の同僚とずっとペラペラ喋っていれば注意される。それは学校の授業でもそっくりそのままである。
それは日本語にもはっきり表れる。「頑張れ」という言葉を訳すとき、英語では”take it easy”と訳したとする。それをまた逆翻訳すると「楽に行けよ」となる。日本のどこに「頑張れ」というシーンで「楽に行けよ」という人間がいるか。つまりそれは「如何にベストパフォーマンスを出すか」のアプローチが異なるということであって、日本では「汗水たらして歯を食いしばった(=だから成功した)」、例えばアメリカでは「肩の力を抜いてリラックスした(=だから成功した)」の違いである。
もちろん目標内容にもよるかもしれないが、日本ではこの「力む」ということに圧倒的に美化される。だからどうなるかというとそうでない人間は怠け者と見做される。それは誰それの問題ではなくて社会的圧力の問題である。「怠け者と見做される」ということは、それだけで留まれば問題は無い。本当の問題は、怠け者と見做された子供たちがどう歪んでいくか、である。
お前は全然ダメだ。なんでできないの。ちゃんとやりなさい。太郎君を見習いなさい。そんな風に言われて無垢な子供が生きていたらどうなるか、想像は容易い。またそのように言語化してすらいなくてもなお、子供はその圧力を肌で感じる。そういうときに原理主義者は「子供を解き放て!」と豪語する。それを「ゆとり教育だった」と言ってもいい。
何度も言っているが原理主義者は白と黒という2色しか知らない。私は世代的にそのゆとり教育ど真ん中の人間だが、その責任は当時の大人にあるに決まっているではないか。当時の子供に投票権はなく、あるのは暇と蹴っ飛ばすサッカーボールだけである。ともかく大人は「ちょっと目を離したら怠ける!」と言うが、子供の言い分は「ちっとは信用してくれ(黙ってくれ)」なのだ。
子供はこんなクダラナイ文章を読んでいるはずがないから堂々と書くが、彼らを勉強させるのは割と「チョロい」のだ。承認欲求を満たし、信用し、友になっておだてて、さりげなく律すればあとは勝手に点数は上がる。不思議なもので「点数なんて取らなくてもいいよ」そう本気で思って言っているとなぜか取ってくるのだ。
それは、そんなこと言われたことがないからなのだ。当然である。家庭教師の男がやってきて、まさか点数なんて気にしなくていいからと言われれば驚くであろう。でも彼らだって本当は「え、そう言われても・・・」と思っているのだ。「取らなくてもいいなんて言ったらうちの子は本当に取りません」。なるほど、たしかに。ただ断言できることは、「やれ」と言われるよりはまし、ということである。点数が上がったとしてもそれは一時的なもので必ず下がる。
でも妻と生活していると「ちゃんとやれよ」と言いたくなる気持ちも痛いほどわかる。口を針で縫わぬ限りはつい言ってしまう。これから子供ができると、こんなエラそうなことを言っている私がどうせ「ちゃんとやりなさい
」なんて言ってるに違いない。波平の如く「バッカモ~ン」、それが私の本性なのだ。
つまり結論とは、言わぬは努力、なのである。