2022年5月21日 14時49分

久御山に引っ越してくる前、兵庫県は丹波市の山間の集落に住んでいた頃、住んでいた一軒家の荒れ果てた庭に一本目を惹く木が生えていた。何の木かわからず、ひとまずそこらに転がっていたプラスチックの鉢植えを持ってきて植え替えた。当時の勤務先のキャンプ場にはエントランスに大きくオリーブの木が植わっていて、葉がそっくりなのを見てその正体が分かった。
あれから引越しのバタバタの中で、なんとなくトラックに放り込んで持ってきたものの、真冬の寒さの中でどう見ても枯れ果ているので、処分しなくてはと思いつつ、改装に夢中でそのままになっていた。春になって庭の草が繁茂していたので草抜きをしていると、ふと鉢植えの枯木に目をやると、芽吹いていた。
枯れてなんかいなかった。教室で育てているカポックとガジュマルも、3年前のオープン当時からそんなに世話をしていないにも関わらず恐るべき生命力で今も健在。オリーブは地面に植えるにもまずは繁茂している草やら木を整えなければならない。特に教室スペースにはもっと多くの植物を置きたい。その理由は下記の通り。
教室の椅子は今現在背もたれのついた椅子が4脚だが、旧竹田校ではスタッキングスツールを8脚置いていた。学ぶには前向きな姿勢になるようにと、背もたれのないシンプルなスツールで気に入っていたけれど、テナントを去るときにフリマで売ってしまった。今となっては惜しまれる。仕方ないので手持ちのベンチを試しに置いてみた。

背もたれもないし座り心地も悪くない。そう思って水曜日の小学生たちを迎えると、寝っ転がりだした。そうか、その怠け方があったか。さらには足を座面に乗せ始める。これは・・・・。そう思って夜の中学生を迎えるとなんと全く同じことをして見せた。こうなるともはや面白い。小中学生にこの手のベンチを与えると寝っ転がって足を乗せて座る。データとしては申し分ない。
それに引き換え、かつてあったあのスツール(因みにこんなもの ↓)

これは使い勝手も座り心地も申し分なかった。これなら寝っ転がれない、足も乗せられない。そういうことはただ単に「お行儀が悪いからダメ」という一元論ではない。仮に行儀を悪くすれば学びがどんどん進むというのであれば別に良い。寝っ転がったり、足を上げたりすることが「できる環境」がそこにあると、人は子供に限らずかならずそれを「やる」。やった結果、身体がどうも落ち着かずに集中力を欠く。結果がトータル的に「悪」なら取り除くほかない。
ついでにこの「トータル的に善か悪か」についてもよく思う。信号は何のためにあるのか、無視して安全が守れる時があれば無論そちらが善。しかしその本質を意識しない人が議論すると「ルールが絶対」主義になる。行儀も一緒で、それがいったい何のためにあるのか。本質的に意味のない飾りの行儀はやらなくてもいい。意味があるならやった方がいい。そうしていわゆるお行儀を見てみると、ちゃんと本質的意味があったりする。
身を置く環境の影響に関しては、理解してもらえなくてもとりあえず生徒には話をする。照明、温度、湿度、机の高さ、材料の質、BGMの有無、雑音の程度、近くにどんな人間がいてその人はどんな状態か、目につく場所に置くものや服装。さような細かいことは普通の人は誰もそんなに影響があるとは思わない。一方で内的な、つまり身体的・精神的な状態に関しては指摘すればすぐ納得してもらえる。
腹が痛くては机に向かえない。恋煩いがあっては集中なんてできない。でも照明や机が何であれそんなにはかわらんだろう、と。内的な状態はもちろん、かてて加えて外的環境が整っていなければゾーン(極度な集中状態)に入ることはできない。外的内的、共に個人差も伴う。なので都度色々な環境の変化させてみて、自分の身体に聞いてみるしかない。これは実際に肌で感じて意識したことがない人に言っても全く理解を得られない。
学生が自分の部屋で勉強できないのは、そこをすでにくつろぐ場所としてこしらえているからだ。人目もなければベッドがあり、スマホもある。閉塞感がある割にモノが多くて散らかっている。そんな環境で理性のない学生が集中できる方が不思議なわけで。教室スペースを細微に調整する意味はそこにある。彼らが身を置いて「なんかいいいな」「集中が続くな」そう感じるような場を作り込む。実際もっと手前の、彼らが家から出て教室に出向いている時点で実はレッスンの大きな部分は完了している、そう言っていいほど環境は人を変える。
テナントを借りるとなると今のように自由にいじることができない。今では自由に改装していいので非常に助かる。今の教室の状態がいまだ間に合わせの状態でなんだか落ち着かないけれど、生徒の指導をしつつ改装するのはかなりタイトなので、いずれ丸一週間お休みを頂いて床の総張り替えに着手しなければならない。新生児の世話と並行で、いつになることやら。