2022年6月5日 7時52分
5月から始まった小学生の行政学習支援事業の管理業務は滞りなく、生徒も小学生なりにやんちゃながら昨年度とは比にならない程クラスの雰囲気も良い。こういった公費の絡んだ、特に教育の事業では、当人である子供たちはほとんど問題ではなく、いつもそれを運営する大人側の問題だったりする。ひとまず眼前の生徒十数名が機嫌よく学習しているのであれば良い。
また最近、本学習塾に中学生と小学生が入塾した。塾に入る前にまずは相談を受けるのだけれども、その際に生徒のお母さんとの会話の中であることを再認識した。それはその生徒が近所の他の塾に相談に出向いた時のこと、入塾にあたってテストを受けたという。その結果とその子の様子を面談で確認の上、塾が迎え入れるかそれとも「個別指導」に回すかを決める。結果その生徒はその「個別指導」となった。
ここで言う「個別指導」はつまり、集団で落ち着いて真面目に勉学に取り組めない、もしくは成績が絶望的に低いので塾の品格に影響する、だから別枠でだったら指導します、と言う理由で塾が設けた一つの「システム策」と推測する。なるほど、そんなことはいわゆる「塾」を「経営」する上では基本的なことなのかもしれない。そもそも成績が良くて、やる気に満ちていて、向上心もあって、目的もはっきりしている生徒を予め篩(ふる)いにかけておけば、あとは高確率かつ自動的に塾に箔が付くではないか。
だから駅前でよく見かける進学塾のガラス扉には、これでもかというほど「~高校・大学合格 ~名!!」と大きく張り出されている。塾が生徒を選ぶ、進学塾にとっては当たり前のこのやり方に、いまさらハッと感心させられてしまっていた。なんせ3年この塾をやっていながらその発想が一度も頭をよぎらなかったからだ。
選別しなければならないほど大勢の応募者が来たと想定しても、できる子を取るか・できない子を取るか、それはビジネス戦略で言えば問答無用でできる子を取るのがいいに決まっている。そう考えてみると、教育に携わったこの5年で関わった生徒の9割5分ができない子だった。それもかなり極端に。家庭教師にしても、英語だけの一教科集中で指導を委託されて行ってみるとそもそも全5教科が全然できない子だったり、それ以前に精神的な問題を抱える生徒だったりした。ある生徒は勉強のストレスで脱毛症になり、ある生徒はテスト返し当日に家出をし、ある生徒は途中で私立から公立に転向した。なんでそういった生徒ばっかり担当になってきたのか。因みにその為にご両親は莫大な費用を投じる。
「教えに来たのに求められていない」 実際今までその状況が常であったと再認識する。というのも、最近ある会場の先生が病欠で、その代わりを代行したことがあった。その時にある中3生徒を教えたときのこと。これが感動的に楽しかったのだ。1時間の指導が一瞬のうちに終わってしまった。彼女は僕にひっきりなしに質問をし、それを分かり易く論理的に説明すれば彼女は深くうなずいた。その生徒は知的欲求にしっかりと飢えていて、それを満たしてくれるだけの論法も必要だった。マシンガンの如き解説を見事に消化する、そんな学生を初めてあの時指導した。
英会話を集団で社会人に教えている時の感覚もそれに近いものがあった。身銭を切って習いに来ている大人であれば、当然と言えば当然かもしれない。確かに家庭教師を付けたり、塾に行かすのは親であって子供ではない。「別に行きたくて行くんじゃない」と言われればさっきのような指導はできない。それをやる気にさすのが先生の仕事だろ、そう簡単に言うかもしれないけれど、根底から勉強が嫌いな人間を意図的に勉強好きにさせるのは天地をひっくり返す程に難しい。
例えば僕がそういう進学塾に勤めるか経営するかして、元々やる気満々のできる子たちを教えればきっと素晴らしく楽しいに違いない。そういう子を指導すれば、集客率は高くなり、金は儲かり、できる子だから成績も上がるので親には感謝され、塾の箔も付く。それでもやっぱり、できる子はもういいじゃないか、と思ったりもする。
そうやって思考を巡らしていくと、とうとうこの塾は福祉的要素を含んだ場所であることを社会に求められているのか、とさえ考え始める。仕事仲間と話していた時にもそう漏らした。別に考えたって答えはない。わからない。僕にとって差し詰めの答えとは、目の前の生徒の今と未来が幸せかどうか、どこまでいってもそれしかない気もする。