2022年7月13日9時45分
非常にありがたいことに、1月16日のリオープンからわずか半年足らずで既に多くの生徒とのご縁があった。またその生徒の大半は学生であり、試行的に始めた水曜日の小学生クラスもすでにギリギリの人数になってしまった。本来であれば塾の概要が記されたチラシを作成して配ったり、ポスティング等をするものかもしれないけれど、やろうやろうと思っている間に集まった生徒で手一杯になってしまった。
水曜日の小学生集団レッスンでは基本的にやりたいことをやってもらう。しかし大半の入塾時の志は英語の上達。英会話しかり学校の英語しかり、学校では1年生から間接的に教え始めているというから驚く。つい最近の学生が中1でやっていることを小3でやっているのだから同情する。その是非はともかく学校で査定されるのであれば避けようがない。
実際に小学生をこの広くない教室に集めてみると、思っていた通りになった。学童みたいになってしまったのだ。学童とはご存じの通り、帰宅しても親がいない子供が放課後時間を過ごす場所である。2015年からは家庭環境に関わらず全ての学生が対象になったらしい。行政事業で放課後教室と称した学童で小学生数十人を相手にする仕事や、今現在担当している学習を促す放課後のクラスもあるので、小学生が数人集まった時にどうなるかは熟知しているつもりである。
例えばアルファベットをきちんと書けて発音できる練習をしていても、すぐにおしゃべりが始まって終いにはじゃれ始める。当初生徒が一人しかいなかったときは割と集中して取り組んでいたが、その子も友達が増えるにつれてその集中力は落ちていった。小学生こそまじめにやってもらうには個別がいいが、それだと今現在の月謝を維持できない。たとえ実際個別にしたとしても今度は「つまらない」「みんなとやりたい」となる。分かる人にとっては常識の話である。
そこで塾の窓際にある自習用の机に席をバラして現在はレッスンをしている。以前よりもだいぶマシになり、各々やるべきことをやっているが、やはり1時間ちょっとが限界かもしれない。現在は2時間でやっているけれど、40分授業に慣れている彼らには荷が重い。長時間ダラダラとやるよりも、短時間しかなければ自然と効率は上がる。今後は16時半スタートの18時終わりで90分に短縮し、また個別で集中的にレッスン希望の小学生には月謝は異なるが別枠を用意する予定である。
英語に関して言えば、小学生から英語をやることによって以前にも増して成績格差が広がったに違いない。予め1年生から英会話教室や塾に通ったりして得意になって(=好きになって)中学校に上がった子たちがいる一方、学校の英語の授業に全くついていけずにほったらかしの状態で中学校に上がった生徒。中学から英語が始まった時代でも、できる子とできない子ははっきり分かれていたのに、余計に拍車がかかってしまった。
また感覚器官が優れている子は「聞く・話す」が素晴らしくても、実は学校のお勉強「読む・書く」とはほとんど無関係である。あれだけ「実践的な英語」「オーラルな英語が必要だ」と言っていても、現場の子供たちはほぼ100%読み書きで査定される。どちらが大事かと言う話は今までも散々書いた覚えがあるけれど無論、両方バランスよく、に尽きる。
小学生の場合はそもそも「読む・書く」がつまらなくて続かない。「聞く・話す」で全部やってしまいたいけれど、それだと学校の成績のご要望にお応えできそうにない。それと同レベルに複雑なのが国語で、それ以外の教科は大したことはない。国語の救いは、現に子供たちはその言語をすでに話しているという点にある。
そして最後の最後には生徒一人一人の個性がある。その個性はその短いながらも歩んできた人生すべての結果であって、そこまでの要因がカオティックに絡んでいれば、教え方はっきりした答えなんてあるはずがない。現場の一刻一刻に手探りでやっていくしかない。だから「小学生はこう指導せよ」や「中学生はこう教えろ」という一元論的な謳い文句の書かれた本を見ると、もう、鳥肌が立ってしまう。ぐちゃぐちゃに絡んだ糸を刃物で一刀両断するような言葉には魔力があるけれど、単に現実とは大きなズレがある。
もし書店に「教育とは、さっぱりわからん!」なんて題名の本があったら僕は間違いなく買う。なんと正直で誠だろうか、と共感して買う。もちろんない。ないのは売れないからであって、売れないのは求められていないからである。求められないのはひょっとして子供の頃、学校ではすべてに答えがあったからなのかもしれない。