今年より塾の名称を「愛民義塾」へ変更致しました。民を愛するなんて桃源郷的な名前は、自分では決してやらないネーミングであります。つまり僕が決めたわけではありません。僕のひいひいひいひいひい・・・・じいちゃんが今から145年前、京田辺市の大住にて同志と共に設立した私塾、それが愛民義塾でした。発起人は大住村の吉田喜内、樺井保親、西村彦四郎で、彦四郎こそ僕の先祖であります。発起人のひとりである樺井保親が綴喜郡長に宛てた「愛民社私立学校設立之来歴」(設立の成り行き)には、
「従来当地ニテハ学齢内外ヲ問ハズ、小学校ニ入ルモノハ其ノ学期甚タ短クシテ、早ニ農業ニ従事セシメ空ク不学ノ徒タラシムルモノ往々有之」
とあって、当時の子供の学習機会が農業に従事することによって少なかったことが窺えます。
祖父の祖母も共に教育者でした。祖母は数学、祖父は体育の先生から校長になり、教育委員会への道を断固拒否して退職しました。僕はおじいちゃん子でしたが、教育というジャンルには生涯で一切関わることはないと思っていました。かれこれ8年もやっている教育者ですが、自ら好んでやった記憶がありません。それは終始、社会からの要請に応えるという形でのみ繋がっている糸みたいなものです。因みに「自ら好んで」やりたい仕事は職人と喫茶店です。木工職人などになって、黙々と、一日山の中で家具やスピーカーを作り、傍らで喫茶店で珈琲を淹れてオーディオを鳴らす。それが確立すればもう何もいりません。
教育者と職人の決定的な違いは思い当たりますでしょうか。端的に言って「生ものを相手にするか否か」です。故に最もなりたくないのは臨床医師であります(いずれにせよなれませんが)。生もの、つまり人間を相手にすることは、ほとんどカオスと言っていいからです。昨日言っていたことが今日は全然違う。昨日できたことが今日できない、逆もしかり。ああすれば、こうならない。いくら人には心理があって、それを勉強したり経験したりしても、最終的には己の施しがその人間においてどういう結果を招くか予測不可能です。
病人であれば正式な治療法を施しても死ぬ可能性がある。そんなことは実は当然でも、訴えられて裁判沙汰になるかもしれない。生徒であれば成績を上げるためにあれやこれややっても全く実らないこともある。そんなことは実は当然でも、「先生に任せておいても成績上がらないわね」なんて家庭で言われても文句は言えない。成績が上がらない原因のほとんどは、生徒がバカだからでありません。生徒が歩んできた人生の全てが系譜的に関連しています。強いてはそれによって形成された「生活習慣」が根本であって、勉強ができないのは風邪で言う症状に過ぎません。そこまで全てを何時間もかけてご両親と話ができれば、少しは肩の荷が下ります。
そんなこんなで生徒がいなくなればすっかり教育から足を洗って職人修行に打ち込もうと思って8年。木工やリノベーションは趣味に留まり、今期も小学生、新中学生ならびに新高校生などに縁があるようです。行政授業で小学生を教える現場で会う同僚の中には、ほんとうに教育に向いているなぁ~と思う人が多くいます。まさに「民を愛する」愛民の精神を自然に備えた天使のような人もいます。そんな不相応な名前を先祖とその同志から受け継いだのは、僕にその精神が備わっていないからでしょう。民主的でない国が国名に「民主主義」と入れるのと同じです。果たして向き不向きが仕事の質に比例するかは僕の知るところではありません。
また継続というのは振り返ってみるとすごいもので、教育に関する知識や経験は知らないうちに勝手に身に付いているものです。受験になればどこの学校がああでこうで、対策はこうやってああやって、この教科はなにしてそれして・・・。だからって生徒に継続の重要性を説教するわけにも行きません。だって別に努力だ何だといって無理しているわけではありませんから。請け負った仕事を熟しているだけです。だから話は簡単で、ほんとうは生徒に責任を負わせて下級生を指導させればいいわけです。そうすればあとは放っておくだけで大人になります(成績も上がります)。
話は脱線しましたが、名前の変更に伴ってサイトのドメインも「aimin.school」でシンプルになりました。さらにサイトのアップグレードもしておりますので、勝手に表示される煩わしい広告も消えました。
以上、宜しくお願い致します。