急いで登った階段の先にはすぐに見覚えのある先生の書斎が見えた。大量の本。壁一面の本はもちろん(メディア上で見覚えがあった)だが、床や机などのあらゆるスペースに都会のビルの如く積みあがった本。先生は机の上にあった本の一部をドサッとどけてスペースを作って下さった。足の踏み場を探しながら歩いてこられ、ご丁寧に名刺も頂戴した。
「さっき東京から帰ってきたばっかりなんですよ。座っていてください、今お茶入れますから」
そう一言仰って先生は更に階段を上がった場所にあるキッチンへと移動され、お茶を淹れるためにケトルに手を掛けられた。二十秒ほどの沈黙が身体全体をこれでもかというほど締め付けた。目のやりどころがなく、ソファはあるけれど恐縮で腰を下ろせず、終始視界を埋め尽くす本と吹き抜けの天井を眺めた。そして先生の一言で沈黙は破られた。
「えーっと、西村さんは何をされてるんですか」
そうお訊きになられたので、教師をやっている旨を伝え、それに付随する内容の会話をした。ソファに一度は腰を下ろしたものの、先生が語り掛けて下さる度に立ち上がり、全身を先生の方に向けて会話を続けた。
「で、今回はなにか相談事でも」
1カ月の間、頭の中であれこれ羅列していたのは「質問」であって「相談」ではなかったので、僕は一瞬固まってしまった。眼前の先生が「なにか相談事でも」そう仰っている以上、僕は相談する以外の思考が働かなかった。相談。先生に相談できるのであれば山ほど相談事はあった。その中から瞬時に選んだ(というより思いついた)一番最近の出来事は、身内の精神病だった。緊張で理路整然と話せていない自分には意識的であった。それでも身内が精神病に陥った経緯を最短で説明し、先生に相談するという形に僕は全身を委ねた。
お茶が入ると先生は二つの茶碗を丸い木のお盆に乗せ、階段を下り、一つを僕の目の前のテーブルに、一つを先生の机に置かれた。黒のワーキングチェアに腰掛けられた先生は、急にいつも画面越しに見ている御姿にな見えた。左手で左頬を包み込むように当てられ、真っすぐと僕に対して眼差しを向けられた。まさに先生のこの御姿、激しい既視感。その瞬間から上下左右と後ろの視覚的な記憶はほとんど残されていない。残されているのはあの椅子に腰かけられた先生、足元のスポットクーラー、そしてそのクーラーから排出される熱風を外へ排出するためのダクト。第一声で暑さを嘆かれていた先生が、全館エアコンではなくスポットクーラーを足元に置いただけに留められたその様子は、私の目にはとても風流に映った。先生が淹れて下さったのは、うま味がしっかりと出た緑茶だった。
先生と一対一の空間。話した内容はファジーにしか憶えてはいないが、はっきりと質問できたことは二つ。先生のご著書の中にあったラカンの引用で「精神病の原因は、父性的隠喩の形成の失敗にあり、これにより主体は『ファルスの意味作用を喚起』できなくなる。」というのがアルベール・カミュのカリギュラが狂人と化した道筋の説明であるとするなら、現代における精神病患者のその根源的な病の始まりも、幼少期の「父性(言葉、論理、母性との断絶)」の不在によるものだと考えられるのか。もう一つは、原理主義を否定する反原理主義は原理主義であるというパラドクスは、とはいえ原理主義であるよりも反原理主義者であるほうが実質的には断然平和的なのではないか、という、改めて書いてみると実に稚拙な質問だった。それぞれの質問に対する先生の答えは、僕の心中にのみに留めたい。
話の流れで質問内容をスマホで探す必要があった。これまた二十秒ほどスマホを見なければならない状態だった時、目的の情報を探しながらも身体は再び沈黙に締め付けられた。先生はその間、手持無沙汰でスマホやPCを操作されているに違いない、そう思った。しかし質問を見つけ終わって顔を上げると、先生は身体を前のめりにして私を真っすぐと直視されていた。あの時の感覚は言語化しつくせないほどに至福であった。それは敬愛する先生に直視されているから、というような分かり易い理由ではない。もっと根源的な何かであった。「私はあなたの存在を確かに保証する」「あなたはここにいて良い」僕が顔を上げた瞬間に受け取った身体的なメッセージは、確かにそのような「安心させるもの」に違いなかった。その辺りから僕は、知の巨人を前に恥も忘れて水を得た魚のようにベラベラと思弁をふるった。
あの時の先生の眼差しは、私がここ数年間抱き続けてきた「スマホ依存症」について言語化できなかった「ムカつき」をほとんどすっかり解決してくれたような気がした。しかしここでは筋違いなので、詳細はまた別の投稿に記す。
つづく